「蛙(かえる)の子は蛙」。鳶(とんび)が鷹(たか)を生むこともあるけれど、やっぱり、子は親に似るものだ……。というくらいの意味かと思っていたら、違うんですよね。「たかが蛙の子は、やはり、たかが蛙でしかない」という、どちらかとういうと、人を悪く言う時に使う言葉なんです。
大筋はあっていても、一部分を誤解して使うと気まずい言葉。「三人寄れば文殊の知恵」などもそうかもしれません。「たとえ平凡な者でも、三人で協力すれば、良い知恵が出る」という意味。「平凡な者でも」と来ましたか。
参加者が平凡か非凡かにかかわらず、「いいアイデアを求めるなら、とにかく三人が適正人数」。以前の私はこのことわざを、そんなふうにとらえていました。なので実際に何かを三人で語り合い、理想的な「解」を得た時は、「やっぱり三人寄れば何とやら、だよね」などとウキウキして口にしたものです。どうも適切な使用法ではないようでした。
しかし正しい解釈を知ったうえで、「平凡な者でも」という説明には疑問を感じています。どうもこの部分は、集団思考の効用を伝えようとするあまり、「三人」の許容範囲を広げすぎているのではないかと思うのです。
三人でありさえすれば、本当にその三人がどんな人でもいいのでしょうか?例えば、一人の才人と二人の凡人が何かを相談したとします。結局、二人の凡人は一人の才人の考えに追従するだけにならないでしょうか? あるいは反対に、多数決の力で、才人の正しい答えを葬ってしまう危険はないでしょうか?もっと言えば、それこそ三人とも、問題を解決するための知識を持ち合わせていないとしたら、その三人は一体どこから良い知恵を出すのでしょう?
先日行われた「最低資本金規制特例」に関するパネルディスカッションで、私は三人のパネラーにこんな質問をしました。「いわゆる一円起業をしたあなた方には資金面での優位性がないが、では、それを何で補ったのか?」と。回答は三者三様かつ文句なし。「綿密な事業計画」「スピーディーな行動」「人的なネットワーク」と並んだのです。しかも、この三つを兼ね備えようものなら、もう資本金など、なくていいも同然です。三人の回答を足すと、そのまま起業の成功法則が完成します。こういうのを文殊の知恵と呼ぶのでは?
目的意識、課題認識、専門知識。三人の起業家は、どれを取っても平凡などというレベルをはるかに超える方々でした。そういうメンバーが相互作用し、切磋琢磨し、さらに互いを尊重する中で知恵が生まれる。私はそう信じます。
ことわざの解釈や説明を思い切り疑ってみる。そして反証してみる。そんな探究心の養い方もあります。そうすれば誤用で恥をかくこともなくなります。
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